鳥居忠政は、父 元忠の関ヶ原合戦の際の伏見城での忠死の功により、慶長七年(1602)磐城十万石を拝領し、徳川家康の命により伊達氏への備えとして平城を築城します。
岩城氏の居城大館は狭隘で、要害堅固でないことから、飯野八幡宮の境内に着目し、忠政は将軍秀忠から永三百貫を拝借し、領民を総動員し、十二年を要して、築城したと言われています。
平城は南面が断崖をなす物見岡にあり、北に好間川、東に夏井川、南に新川が流れ、西は丘陵続きとなっています。
物見岡の最高所に本丸、その東に水手曲輪・水手外郭、西に大手郭・大手外郭・内記郭を配置している梯郭式の縄張りです。
本丸には外観二層の三階櫓があり、大きな水手郭を脇に配しているのが特色で、本丸の南北両面断崖下には、半円形の城坂堀と丹後沢があります。
忠政は新城の絵図を幕府に奉呈し、秀忠はその功労を賞したといわれ(「磐城資料」)、元和八年(1622)二十万石に二倍加増して山形転封で報いました。
以後、内藤→井上→安藤と交代し廃藩を迎えます。
出典(城と石垣の歴史 纂修堂 鈴木啓)
(ふくしまの城 歴史春秋社 鈴木啓)